嗚呼、刀葉林

読んだ本とフリゲについて、書いたり書いてなかったり。

同時代禅僧対談〈問い〉の問答(2008)

 曹洞宗、南直哉、臨済宗玄侑宗久の対談。お二人共勉強熱心で知識量、頭の回転も早く、ついていけない話だらけだった。経典関連は全滅。それ以外の仏教のあり方、葬式、言語、異界などは何とかついていけたような、ついていけなかったような。痛烈に感じる、勉強不足に続く勉強不足。二回読んでも頭に残ったのは一パーセントあるかないか。これは勉強不足じゃなく、自分の頭の問題かもしれない。まあ、お二方とも慶応、早稲田の出なので…と言い訳しておこう。

 記憶に残ったのは南さんのところへ出家したいと尋ねてきた男性の話だ。男性は小学四年の時、猛烈ないじめに遭い、三十歳まで引きこもっていた。南さんは男性の話を聞くことに決め、だいたい三時間くらいで終わるだろうと予想を立てていた。しかし男性は夕方の五時から翌朝の九時までぶっ続けで、自分がいかに切なかったかを語ったのだった。

 男性が溜め込んでいた思いの量に驚くと共に南さんの忍耐強さにも驚く。対談相手、玄侑さんの「それだけ長時間よく聞き続けましたね」という言葉に「だって、そうでないと信頼関係が崩れてしまいますから。最初に、『聞いてやるからぜんぶ言え』と言ったんですから」と南さんは答えている。男性はこの後、外に出られるようになり、不登校の子供達が集まる場所でボランティアをしているという。

 ここからは私の完全な想像になるが男性が外に出られるようになったのは、南さんに全てを話したからだと思う。「ただ話を聞く、聞いてもらう」。これはかなり大きな力を持っている。それこそ人を百八十度と変えてしまうような絶大な力だ。

 もしもの話をしてもしょうがないけど、もっと早くに男性の話を聞いてくれる人がいたら引きこもりにならずに済んだのだろうか。男性は心療内科にかかっていたものの時間が決められているので、初めから終わりまで全てを話したことはなかったという。お二人はそれをカウンセラーと心療内科の問題点だと語っている。

 多分、男性のように自分の思いに苦しんでいる人は大勢いると思う。私の知る限り、主語が大きい人、自分語りへの風当たりは強いようだし、近頃、急激に叫ばれるようになった個性だって褒められる部分だけが取り上げられている。精神病や認知症患者などの「個性的すぎる言動」はどういう訳か嫌悪の対象だ。

 反町も戸惑うほどの、言いたいことが言えなさ過ぎる世の中。答えも同意も否定も必要ない、ただ聞いてもらいたいだけなのに、それが許されない。と、書きつつ経験談として実はちょっとだけ同意してほしかったりする。みんな辛いのは知っているし、自分のしんどさは世界レベルで下の方なのも十二分わかっている。でもしんどいんだから、自己計測の地獄を味わってなお生きているんだから、たった一言「大変だね辛かったね」くらい求めてもいいじゃないか。他人へ要求が苦痛の種だとしても、それでも人間は自分の思いを抱えるには脆すぎる。だから群れるのだろう。

 随分、後ろ向きで好き勝手なことを書いてしまったけど、世界の見方は自分でいくらでも変えられるし、良くも悪くもこの世は諸行無常。怒ろうが笑おうが一切は過ぎ去っていく。状況が変わるまで、ひたすら足掻くのも良し、先人の言葉に解決の糸口を求めるのも良し、自分を傷つけるのも良し、他者に当たり散らすのも、まあ悪いとも良いとも私は言えない。人間、少なくともこの国に暮らす人達はやっていいことと悪いことは分かるはずだ。そうはいっても世の中は耐える他ない、解決法のない問題はいくらでもあること。そしてその答えは「分からん」で大丈夫だったりするので、わりかし適当でも生きていけるもんだぜ。と最近思います。

同時代禅僧対談〈問い〉の問答

著者:南直哉、玄侑宗久

発行:2008

本体価格:1800円+税