嗚呼、刀葉林

読んだ本とフリゲについて、書いたり書いてなかったり。

読み替えられた日本書紀(2020)

 日本書紀は欲望、時代の移り変わり、新しい文化、宗教など様々な影響を受け、独自の解釈を加えられてきた。儒学や仏教を元に解釈、現実世界と神話を結びつけるなど、強引な解釈が加えられ、時には偽書も制作された。当然、日本書紀は本来の姿を消していく。

 イザナミ、イザナキの第一子、ヒルコは両親に捨てられた後、龍に育てられた、龍は仏教において低い位置づけがされているのでヒルコ(恵比寿)は地位の低い神である、スサノオ出雲大社に鎮座する神、アマテラスの本来の姿は蛇体などなど、とんでも解釈が生み出され、それを元にさらに新たな解釈が付け加えられていく。

 ちなみに出雲大社に鎮座する神がスサノオから大国主命に戻されたのは神仏習合思想から脱出した17世紀後半以降とされている。

 様々な影響を受け、本来の姿をなくしてしまうのは日本書紀に限らず、今現在でも見られる流れだ。この本で得られる教訓はどんな情報でも疑い、自分の目で読み、確かめる大切さ、だろうか。

 以下、気になった部分の引用。

カントーロヴィッチのいう「王の二つの身体」とは、王が持つ「自然的身体」と「政治的神体」を指す。前者は生理的、生物的な存在として規定されるが、一方、後者は不可視の抽象的身体で、政体の持続性や神秘的威厳を代表する。そしてヨーロッパ中世王権は、王の二つの身体が統一され、王が生きているかぎり分離されない、という神学的思考によって成り立つことが明らかにされるのである。

引用:読み替えられた日本書紀 p271

導かれるのは、日本古代の天皇は、「王の二つの身体」を統一することができず、「二つの相矛盾する身体を備えていなければならいという宿命」を背負わされていることだ。それは「帝紀(国家の歴史)と先代旧辞(王家の神話)を一本化するのは至難の業」であったという認識に至る。ふたつの史書の成り立ちを、統合されない「王の二つの身体」として捉えていくわけだ。

引用:読み替えられた日本書紀 p271