嗚呼、刀葉林

読んだ本とフリゲについて、書いたり書いてなかったり。

禅的生活(2003)

「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」。対して「禅道と云ふは平然と生きる事と見つけたり」とこの本を読んで思った。平然と…は残念ながら私の思いつきではなく、最近本で知った言葉だ。詩人当たりの人が言っていたような気がするけど、間違っているかもしれない。

 禅の面白さはありとあらゆる枠を枠を越えようとするところだ。何もないと思っていたところに地面があり、空があり、空気があると考える。ぐんぐん世界を広げたと思えば、何の前触れもなく全て消し去る。禅の奔放さは言葉も同様で、著者いわく「佳いと思った言葉はどこのものでも使ってしまう貪欲さに溢れている」とのこと。

 本編で特に興味を引かれたのは「表現しすぎた志の怖さ」だ。金子みすゞ宮沢賢治などを例題に出し、「表現に自分の全体を合わせ、方便であることを忘れていく」ことの怖さを説く。

 金子みすゞの「私は好きになりたいな、なんでもかんでもみいんな」、宮沢賢治の「世界全体、幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」は到底無理な話だ。しかし人はさらに過激な表現を探し、方便さえも忘れ、不可能を可能にしようと格闘し始める。結果、二人は自死を選んだのではないかと著者は推測している。

 どうにもまとまらん。本日はここまで!

以下、気になった箇所のメモ

 悟りとは「万物が隔てなく一つであり、空間も時間感覚もない。主観的な自己がなく、思想も言葉も感覚もない。心に自我がなく純粋な未分化の気付きとして存在している。」。

禅的生活

著者:玄侑宗久

発行:2003

本体価格:760円+税