嗚呼、刀葉林

読んだ本とフリゲについて、書いたり書いてなかったり。

老師と少年(2006)

 徹底的に削ぎ落とされ、厳選された言葉達は砂漠に雨が降るように深く染み込んでくる。著者は曹洞宗の禅僧、南直哉さん。著者のことはあまり知らないけれども、この前読んだ対談本でかなりしんどい人生を歩んできたのは知っていた。その本の中で「老師と少年」にも触れていて、著者は「お経のような本を書きたかった」と語っている。対談相手はだからこそ何度も読まざる得ないと評価していたけれど。確かに私はこの本を何度も読んでいる。

 ページ数はたったの百十一。物語も悩みを抱えた少年と土地から土地へ旅をしている老師の会話が中心で大事件が起きなければ、大どんでん返しもない。悩みを訴える少年とそれを聞く老師。ただそれだけなのにどういう訳か、感情を揺さぶられる。全編を通して感じるのは、とてつもなく大きく深い肯定感だ。

 悩みも苦しみも間違いも全て引っくるめて、そのままでいいじゃないか。俺もそうなんだから、おかしいことは何一つない。

 この肯定感は多分著者が人生に苦しみ、逃げることなく徹底的に向き合ってきたからこそ、私の心にちゃんと伝わったのだと思う。

 ふと頭に浮かんだのは漫画スラムダンクのゴリが山王の河田と対峙した場面だ。その圧倒的な強さから、ゴリは背後に河田の大きな掌(ゴリ自身が作り上げた過剰なプレッシャーか?)を感じていた。私が感じたのはあれの真逆版だ。とても優しい、圧倒的な安心感。仏の掌って、こんな感じなのかもしれない。関係ないけど、スラムダンクの映画、観に行くか迷うなあ…(原作至上主義)。

「生きる意味より死なない工夫だ」

笑いましたね。老師は、あなたが笑ったらこう言えと言いました。

「その笑いの苦さの分だけ、君は私を知ったことになる」

引用:老師と少年 p110、111

 最後に登場する、老師の世話をしていた少女の言葉。この言葉を見つけるまで、書けるようになるまで著者はどれほど、もがき苦しんだのだろうか?この言葉を読む限り、悩みは完全に消えたわけではなく、おそらく死ぬまで苦しみは続くのだろう。でもそれが人間で、だからこそ楽しいことも感じられ、穏やかな時間も過ごせるのだと私は思う。

 苦楽は表裏一体。この世は諸行無常。どんなに辛い状況でもいつか上昇する。そうならざる得ない。加えて私の悩みは遥か昔から数え切れないほど悩まれ、川の流れで削られる石のように丸くなって、軽くなっている、と想像してみる。そう考えると自分の悩みは大したことじゃないな、と思えないでもない。

老師と少年

著者:南直哉

発行:2006

本体価格:950円+税