嗚呼、刀葉林

読んだ本とフリゲについて、書いたり書いてなかったり。

笑いの哲学(2020)

 ポリコレとは「政治的公正を意味する。劣位に置かれていると思われる人々が自分は優位にあると思い込んでいる者から被ってきた差別、偏見を是正し、政治的また社会的に公正で中立な姿勢と求める」。

 ええことやと思うけど、最近のポリコレだるいな…。

 色んな意味で批判を受けそうな感想を抱いているのは私だけではないと信じたい。一部の人々のせいで世の中の風通りが悪いなと感じるのも私だけでないと思いたい。私はゲームが好きだから、ちょこちょこポリコレの噂は聞いていた。

 発案者やそれらを取り巻く国、文化などを一切無視し、「私(俺)が不快だから間違っている」と自己中心的な正義の元、対象を叩き潰す様はまさに現代に蘇りし魔女狩りだ。一部の人間のため、様々なものが規制され、世界は色を失っていく。もちろん規制があるからこそ、新たな創意工夫が生まれる場合もあるが素人目に見ても最近のポリコレは行き過ぎている。

 さらにそこへ参戦してくるのが「マイクロアグレッション」。この言葉は本書で初めて知った。マイクロアグレッションとは「ほんの些細な攻撃性を意味する。この概念の特徴は攻撃した側にしばしば悪意の自覚がないことであり、ゆえに自覚なき差別と言われる。加害者とみなされる者に攻撃の意図があったか否か以上に、加害者とみなされる者の言動の解釈に重点が置かれている」。

_(:3 」∠ )_

 どうしてこう一部の人達は自らを低位置に、被害者として振る舞いたがるのだろう?ここからは私の想像になるが、彼(彼女)らは世界が怖くてしょうがないのではないだろうか。人は心身共に脆弱で、少しでも不安があれば排除したくなる生き物だ。一部の過激なポリコレの原動力になっているであろう猛烈な怒りは安心を得るための怒りだと思う。

 これは彼らに限った異常反応ではなく、人間の、もっといえば生き物の本能で悪いことではない。しかし彼らがまずいのはこの世の全てを「自分達が認めた、安全なものだけが存在する世界」に作り変えようとしている点だ。それが不可能なのは人種や性別など、様々な差別と戦う彼ら自身、十二分承知しているはずだ。安心を求め、過度な規制を行った世界は狭く、息苦しく、最終的に自分を殺すはめになると私は思う。

 話がたいぶ逸れた。本書は笑いの本だった。ポリコレとマイクロアグレッションは「優越の笑い」の章に登場し、話の中心ではないのだが個人的に色々思うことがあったのでつい長々と書いてしまった。

 お笑い好きを称する著者はダウンタウンやナイツ、スギちゃん、オードリー、IPPONグランプリ、ラジオなどを引用しながら西洋と日本の笑いの違い、笑いの仕組み、種類、ネタの構造などを細かく分析していく。ナイツの何十にも張り巡らされた笑いの罠、人を笑わせる難易度の高さに驚き、それを職に選んでいる芸人の勇気と素晴らしさに感動した。

 特に興味深かったのはダウンタウンの浜ちゃん(浜田雅功)の言葉だ。人気が高まり、ダウンタウンが舞台に登場するだけで爆笑が起こるようになった。

だいたいお客サンにしても、”こいつら世間一般からおもろいとされてるから、何いうても笑ろうてまうわ”というのでは、レベル低過ぎると思いません!?偉そうないい方やけど、笑う以上に、笑う側もまたレベル気にして欲しい、感性を磨いて欲しいし、勉強もして欲しいんです。そうやっていっしょになってやってくれへんかったら、芸人はホンマ、ダメになってしまいますよ。

引用:浜田雅功「がんさく」

 私は笑いのことは全然分からないけれども、芸人のネタ作りは観客に担ってもらわなければならない部分があると思う。ネタの完成度を高めるため、観客の反応は必要不可欠で、そもそも観客がいないと芸人という職業が成り立たない。つまり芸人と観客は運命共同体だ。だからこそ私達観客も一緒に感性や勉強をしないと芸人がダメになってしまうと浜ちゃんは語ったのだろう。

 確かに思い返してみると観客に甘やかされるだけ甘やかされ、ネタも腕も磨けず、結局観客の熱が覚め、「冷静に考えるとこの人達、面白くないな」と烙印を押され、忘れ去られていく人気芸人を何度も見た。星の数ほど居る芸人の中で一発屋だろうが何だろうがテレビに出られること自体、とんでもない奇跡だ。

 でも前々から知っている芸人、正統派漫才師が世間の要求によって奇抜な芸を行っているのを見ると、こう何とも言えない腹正しさと切なさを覚える。でも本人が納得しているなら言うことはないし、どんな形でも売れて美味しいご飯をたらふく食べてほしいし、…複雑だ。

笑いの哲学

著者:木村覚

発行:2020

本体価格:1750円+税