嗚呼、刀葉林

読んだ本とフリゲについて、書いたり書いてなかったり。

山伏と僕(2012)

 山伏は死者である。自らの葬式をあげ、死者が着る白装束に身を包み、手には自らの墓を表す金剛杖を、他界と考えられる山にこもり、様々な儀式を通し、生と死を繰り返す。

 著者はほとんど思いつきで山形の羽黒の山伏修行に参加した。想像を遥かに超える厳しさに心身を打ちのめされながらも修行と山伏そのものに魅了されていく。自然と自分という狭く広い世界で著者は日常を離れ、自分さえ曖昧になり、五感が研ぎ澄まされていく。

 修行場の、湯殿山の拝所へ向かう途中、著者の前に真っ赤な巨岩が現れる。御神体とされるそれは割れ目から温泉を吹き出し、見た目は「グロテスクな肉の塊」のようだ。拝所は岩の奥にあるため、御神体といえど登らなければならない。著者が岩に手をついた、その瞬間。

僕の身体に衝撃が走りました。生々しい弾力が伝わってきたのです。

「岩が生きている」

人間の身体のようでもありました。僕はその感触に心当たりがありました。それが女性器に触れた感触と同じだったのです。湧き出る温泉が、あたたかい愛液ようにヌルヌルと僕の指の間を通り抜けていきました。

岩は人間と同じだ。人間は岩と同じだ。そう思うと、僕は自然の中に吸い込まれていくように感じました。その感覚は不思議に懐かしいものでした。

引用:山伏と僕 p58

 この体験の後、著者は幼少期、熱に浮かされるたび見ていた夢を思い出す。幸福感に満ちた闇が徐々に脈打ち、幸福の終わりを告げる。著者はそれを母の体内にいた時の記憶であり、病により死に近づいたことで無意識に死から生の世界へ移り変わる体験を思い返していると確信する。それは母胎である山で生死を繰り返す、山伏も同様であった。

 著者の調べによると山伏の始まりは古代「ホカヒビト」「ヒジリ」と呼ばれた漂泊の旅人であったらしい。共同体から飛び出し、あるいは排除され、村々を渡り歩き、呪術を行い、神や精霊と人々を繋いできた。彼らの呪術の言葉から歌が、動きから舞が生まれ、日本の芸能芸術が始まった。

 芸術家の著者は残された人生を山伏を通し、日本文化の原点、自然と向き合うことに費やすのも悪くないと書き、本を締めくくる。

山伏と僕

著者:坂本大三郎

発行:2012

本体価格:1300円+税