嗚呼、刀葉林

読んだ本とフリゲについて、書いたり書いてなかったり。

ドキュメント戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争(2002)

 日本人は南極大陸のペンギンである。

 そう感じざる得なかった。この物語はアメリカをボスニア紛争に介入させるため、奮闘したアメリカの大手PR企業、ルーダー・フィン社とボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国、ハリス・シライジッチ外務大臣の物語である。ボスニア紛争とは旧ユーゴスラビアで1992年から約3年間にわたり続いた民族紛争を指す。

 当初アメリカにとってボスニア紛争は介入しても得のない、そもそも名前も場所も知らない遠い国の話でしかなかった。この圧倒的に不利な状況をルーダー・フィン社は経験、人脈などを駆使し、ひっくり返していく。

 ページをめくるたび放たれる何手先も読まれた一手は伏線となり、最後には回収される。できすぎたストーリーに思わず、本当にノンフィクションかと疑う。

 存在不明の強制収容所と偶然撮られた現地の痩せた男の結びつけ、インパクト大の「民族洗浄」の言葉の発見、偶然見つけた難民女性の効果的な見せ方などなど彼らのやり方は素人目には少々、いやはっきりと違反行為にうつった。が、彼らにいわせれば「ナイラの証言」のように完全な捏造ではないのでセーフなのだそうだ。

 たった一社のPR企業により、セルビア紛争は民族紛争でありながら「血も涙もない悪のセルビア人と無力で可哀想なモスレム人」という実に分かりやすい対立が作り出された。連日報道されるセルビア人の残虐行為に強い憤りを感じたアメリカ国民と政府は正義の元、ボスニア紛争の介入を決める。

 ニューヨーク・タイムスのコラムニストは言う。

ボスニアにあったのは、ナチスが作ったような強制収容所ではなかったのだ。それに収容所はセルビア人もモスレム人もどちらも作っていたんだ。それが、善悪二元の描かれ方をしたのは、いかにもアメリカ特有のやり方だよ。アメリカ人というのは何でもすぐに単純にドラマ化したがる勧善懲悪激が大好きな国民なんだ」

引用:ドキュメント戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争

 紛争が終結し、残ったのは民族同士の憎悪、悪玉に仕立てられたセルビア人への「虐殺者」「人道の敵」のレッテルだった。紛争を始めとする戦いにいいも悪いもないが、なんとも後味が悪い。

 PR企業が国を動かす。

 この事実を重く受け止め、常に冷静な思考と判断、広い情報収集と分別の仕方を覚えたい。

 本書でも指摘されているが日本のPR能力は目も当てられないレベルである。アメリカの高級官僚は民間を経て役所に入るという。官僚となってからも外に出て経験を積む人が多いのだそうだ。「食うか食われるかの厳しい世界」の経験のある官僚は当然PRだけでなくあらゆる能力が高い。対して日本は大学卒業後、すぐに外務省入り、そして一生その中で生きていく。

 日本の現状に危機感を覚える著者は語る。

昨今、多少の人材を民間から登用することも始められているが、量的にも質的にもまったくの弥縫策(びほうさく)にすぎない。現在の硬直しきった役所の人事制度を根元から変革しないかぎり、二十一世紀の日本の国際的地位が下がる一方になることは、はっきり予見できる。

引用:ドキュメント戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争

 正直にいうと外のことなど放っておいて自分のことだけを考え、ぬくぬく生きていたい。鎖国や引きこもりは日本のお家芸であるし、自分自身全く苦ではない。しかし世は情報化社会であり、世界の平均化が進んでいる今、「面倒だからやりたくない」は通用しない。それでものんびりと生活している日本人は自分を含め、根っからの南極ペンギンであるなあと思う。