嗚呼、刀葉林

読んだ本とフリゲについて、書いたり書いてなかったり。

ムーミン童話集④ムーミン谷の夏まつり(1990)

 ムーミンの作者トーベヤンソンが人間観察に長け、孤独を知り尽くした人物であるのは散々書いてきた。おひとり様という言葉が誕生する前からおひとり様だった俺はムーミンシリーズ全体に漂う人間への限りない優しさと寂しさの海に沈みつつある。ほんと名作。

 我ながらいつも以上に支離滅裂なことを書いているのは自覚している。が、今回ばかりはしょうがないのだ。この巻は精神的ダメージがでかすぎた。格好良くいうなら古傷をこじ開けられたのだ(は?)。

 好きなことをする大切さと執着の苦しさ。この2つが今回のテーマだと思っている。

 自己肯定感が極端に低いミーサ、ルールに縛られ、夏祭りのパーティーを自らの手で台無しするフィリヨンカ、自分の存在意義のため無罪のムーミン達を牢屋に入れる牢屋番…。

 傍から見れば呆れるようなささやかな事柄に執着し、自分の首を絞めている新キャラクター達。彼ら自身、心から馬鹿らしいと感じながらも執着を手放せない。その姿が自分と重なり、ページをめくるのが辛くなる。

 精神的な余裕がなくなった人間の視野は極端に狭い。四六時中、被害妄想に苛まれ、攻撃的になる。ムーミン谷を襲った洪水、自然に対してもミーサはヒステリックだ。

「だれかが、わたしのことを考えて、わたしのためになにかしてくれたっていいでしょ?それなのに、この洪水ときたら!」

引用:ムーミン童話集④ムーミン谷の夏まつり

 ミーサの自己肯定感の低さの根底にあるのは恐らく「全て自分の思い通りにしたい病」だろう。理想と違う自分、自分を重んじてくれない自然などなど…どれもこれも思い通りににならないから不満と怒りがおさまらない。人間、思い通りに周りを動かせるのは赤ん坊の時くらいなのだが、ミーサはその事実に背を向け続ける。

 大きな赤ん坊ミーサを変えたのは自己啓発本に書かれているような「ありのままの自分を受け入れること」でも「世界の理不尽さを受け入れること」でもなかった。

 洪水の被害に遭ったムーミン達は偶然流れてきたオンボロの劇場に移り住む。彼らは劇場の持ち主であるエンマから舞台の素晴らしさを聞き、みんなで悲劇をやることになる。

ミーサは、ほほをかがやかして、さけびました。

「じっさいとは、まるで別の人間になれるなんて、なんてすばらしいんでしょ。そしたら『あそこにミーサがいくよ。』なんて、だれもいわないで、みんな、いうわよ。『あの赤いベルベットを着た、髪の黒い女の人……たいしたプリマドンナね……あの人、きっと、ずいぶん苦労してきたんでしょうね。』って。」

引用:ムーミン童話集④ムーミン谷の夏まつり

 無理に自分を好きになる必要も成長する必要もない。舞台上の短い間だけでも理想の姿となり、人生の喜びを感じられるのならば。

 これが大きな赤ん坊ミーサへトーベヤンソンが示した救いの方法であった。一見問題解決にならない無責任な案に感じるが、相手を否定しない素晴らしい案だと俺は思う。

 自己肯定感の低さは裏返せば自己への期待度の高さ、つまりねじ曲がったナルシシズムだ。ありのまま自分を受け入れるなどの一般的な解決法は「相手の抱える悩みを否定すること」になる。ねじ曲がった自己愛が強い人間は否定に敏感だ。下手をすれば相手が嫌になる。例え自分から相談を持ち掛けていても。

 ミーサはこの後、女優の道を歩み始める。舞台という思い通りになる時間を通して彼女は惨めな自分や世の理不尽と距離ができ、冷静に向き合えるようになるだろう。

 最後にミーサに対するミムラのねえさんの評を。

「ミーサのことなんか、気にしないこと!あの人、いつでもすぐのぼせあがるのよ。」

と、ミムラのねえさんがいいました。

引用:ムーミン童話集④ムーミン谷の夏まつり

 ねじ曲がった自己愛人間の放置。触らぬ神に祟りなし。

 これも一つの正解だと俺は思う。